街角日記:コミュニケーションの重要性と概念の整理🌵

communication

最近、つとにコミュニケーションの重要性を実感する機会が増えてきたと感じている。

これには幾つかの明確な要因がある。すなわち、

  • ここ半年ほどで、他者と1on1のコミュニケーションを取る機会が格段に増えた。
  • それにより、自己とは異なる世代/価値観/感受性を持つ他者と深く交友を持つようになった。
  • 特に、自分より年下の方と交友を持つ頻度が高まった。
  • 重ねて、コミュニケーションというものが一つの”技術”であることを明確に意識するようになった。

といったものである。

若かりし頃の自分にとって、他者とコミュニケーションを取るということは、ただそこにあるものだった。すなわち、他者とコミュニケーションを取るときに、「自分はいま、他者とコミュニケーションをとっているという自覚」を持っていなかったのである。ただ話したいと思ったときに話し、相手のどこかを嫌だと思えば縁を切るなど、とても即物的・あるいはインスタントに、コミュニケーションというものや、それにより構築される人間関係を捉えていたように思う。これはこれで、一つのコミュニケーションの形であるから、一般論として、決して悪いことではない。

しかしながら、私個人の感覚としては、歳を重ねるにしたがって、コミュニケーションというのものをより客観化して認識するようになった。

客観化とはつまり、

  • 近代以後において我々は、一人ひとりが異なる人格を持つ、個人である。
  • 自身は個人であり、他者もまた個人である。
  • このような、独立した個人同士の、いわば相互理解を図る手段の一つが、コミュニケーションである。
  • すなわち、コミュニケーションとは、相互理解のための手段(→技術)である。

要するに、自分も他者も一人の個人であって、コミュニケーションというものは相互理解を図るための手段であり、かつ技術である。ということである。コミュニケーションというものの、技術性を明確に意識するようになった、と言い換えてもいいかもしれない。

コミュニケーションが技術であるということは、これらは勉強や訓練によってより良いものにすることができる、ということを意味している。豊かで実りあるコミュケーションが、人間生活にどれだけの喜びをもたらすかは、今更述べるまでもないだろうと思う。

ここでは、概念の整理によって、コミュニケーションを少しでもより良きものとしたい。そのような思いから、以下においては、コミュニケーションというものについてやや抽象的に整理する。

その論旨は、要するに、コミュニケーションにおいては「自身が他者に対して誠実(Sincerity)であること」が大切であるというものである。

 

Sincerity

私個人として、誠実であることは、他者とコミュニケーションを取る上で最も重要であると感じている。

相手がたとえどのような立場(年上、年下、社会的身分の上下、etc.)であっても、相手の人格と個性をまずは尊重し、虚心坦懐にコミュニケーションの一歩を踏み出し、またそれを良きものにしようと心がける。このような作業は、ときに一定の負担をともなうものであると思う(コミュニケーションに苦労した経験は、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう)。これは、相手に対する誠実さを持ち、かつ相手に示さなければ、到底やり抜けるものではない。そしてまた、誠実さの欠けた態度は、相手に対してすぐに伝わり、悪しきコミュニケーションにつながってしまう。

誠実さとは、コミュニケーションの基礎となるものだと私は感じている。

そしてこの誠実(Sincerity)さは、

  1. 一貫性(Consistency)
  2. 対話性(Interactivity)
  3. 尊重的態度(Respect)

から成る、と整理したい。

①一貫性(Consistency)

一貫性は、コミュニケーションの基礎を構成していると考えている。一貫しているというのはつまり、自己の振る舞いが、自分や他者から見て、一貫しているか/筋が通っているか/不義理なところがないかということである。

人間は、論理的にあるいは条理的に一貫しているものに対して、信頼や信用を寄せる傾向がある。コミュニケーションにおいても、相手に対する態度や、それにより生じた自己の感情に対し、常に一貫した態度を心がけることで、誠実なコミュニケーションにつながる。

②対話性(Interactivity)

対話性とは、常に相手とのコミュニケーションにおいて、リクエストとレスポンスを繰り返すことを意識する、ということである。自分が何かを発し、それに大して相手が何かしらを応答する。それにまた自分が何かを発し……、というように、要するに言葉のキャッチボールをするということである。このような丁寧な作業を繰り返すことで、他者に対し、誠実さを示せるし、またスムーズなコミュニケーションが可能となる。

③尊重的態度(Respect)

最後に、言うまでもないことだが、相手に対しリスペクトを抱き、尊重することは、これらすべてを円滑にこなす上で不可欠な心持ちである。

 

まとめ

誠実(Sincerity)さは、

  1. 一貫性(Consistency)
  2. 対話性(Interactivity)
  3. 尊重的態度(Respect)

から成るものであり、これはコミュニケーションの中核を担うものである。

円滑で実りあるコミュニケーションには、これらの3要素を意識することが有益である🌵

街角日記:未知の物事を勉強することの楽しさ(プログラミングのお勉強)

最近、新しい分野の事柄をいくつか勉強している。

というのも、先日、2年来の付き合いのある主治医(精神科医)に、

  • 良い人生とは、基本的に、幸福な時間を積み重ねていくことである。
  • 幸福とは各々の主観と価値観によって定義される。
  • しかし、幸福な時間を過ごすには、
  • ①適度な運動
  • ②新鮮なInput(勉強)
  • ③適度なOutput
  • ④適切な食事、が最低限満たされている必要がある。

とのアドバイスをもらった。

僕自身は基本的に法学を専門とする、いわゆる「法学徒」で、もうなんだかんだで数年来の勉強を積み重ねている。そのおかげか、法学について昔に比べると深く理解できるようになり、また、法学的思考を訓練することで、以前より深く物事を捉えることができるようになったと思っている。

しかし、反面、法学の勉強を一定期間継続したことで、勉強することに対する新鮮さが薄れてきてしまっていた節があった。既知の物事についての理解は深まる一方、未知の物事に挑戦する気概が失われつつあった、と言い換えてもいいかもしれない。

そんな折に主治医からのアドバイスを受けたのだ。主治医は精神科医であり、自己のクリニックを運営しつつ、医学以外の様々な分野に取り組んでいる。そのような主治医の姿勢に感化され、僕も、これまで興味がありつつも、腰が重くなりがちだった分野の勉強を習慣化することにした。
そういうわけで、今はプログラミングに取り組んでいる。

・自分なりのプログラミングの勉強の仕方

基本的に、現在取り組んでいる言語は、①HTML&CSS②Javascript③PHP、そしてこれらを実践的に運用するための④環境構築(Docker,Vagrant,Linux,Xampp)の勉強を主としてる。

基本的な勉強ルーチンとしては、

  1. 新しい言語の感触を掴むために、Progateでまずは触ってみる。
  2. 慣れてきたら入門書を一冊買ってきてしっかり自分なりに消化する。
  3. 並行して環境構築のノウハウや、基礎原理(e.g. HTMLであれば基礎となるhttp、URIの仕様について学ぶなど)を把握していく。

各言語の書籍は、主に読み進めながらScrapboxに読書メモを残していく形で消化している。Scrapboxはコード記法(シンタックスハイライト)に対応してるので、とても使い勝手がよく、技術書のメモを残しやすいと感じている。

プログラミングの勉強で面白いと感じるのは、何よりもまず第一に、「自分の手でツールを構築していく手応え」が残る点である。これは、法学の勉強時には得られない感覚であった。法学は基本的に観念の学問であるから、かような実感は得づらい。

第二に、これは人にもよるのだけど、「環境構築の面白さ」があるとも思う。ただ言語について学ぶだけではだめで、それを動作させる環境をイチから構築していくという点に、自分なりの遊び場を作るかのような無邪気で童心に帰れる面白みを感じるのである。

以上のような感じで、最近はめっきりプログラミングにのめり込んでいる。これは予想していなかったことなのだが、プログラミングという新鮮な分野に取り組むことで、息抜きになり、法学の勉強もはかどるようになった。まさに新鮮なInputができている感じがあり、精神衛生的にも良い。

しばらくは勉強を継続していきたいと考えている🌵

 

Xamppで"VCRUNTIME140.dllがないから起動できません!"となったときの対処法

問題の所在

PHPの開発環境を整えるときによく使われるソフトフェアに、Xamppがある。

Xamppは、

  • Apache(Webサーバーエンジン)
  • PHP(プログラム言語)
  • MariaDB(データベース)
  • phpMyAdmin(データベース管理ツール)

がひとまとめになったソフトウェアである。Xamppをインストールすれば、一挙にPHPの開発環境、すなわち自分のPC内でWebサーバーを立ち上げることができる。

通常、Xamppは次の手順で実行環境を整える。

  1. Xamppをインストールする。
  2. 解凍して得られたXamppディレクトリをCドライブ直下に移動(コピー)する。
  3. C:xampp\setup_xampp.batをダブルクリックして起動する。
  4. 同xampp-control.exeを実行して、Apacheを起動(start)する。

しかし、筆者の環境(Windows10)では、3の段階で、
「VCRUNTIME140.dllが見つからないため、コードの実行を続行できません。」

と表示され、Apacheが起動できない状態に陥った。

以下、この問題の解決法を記す(かんたんです)。

 

解決法

解決法は、次のとおりである。

visualstudio.microsoft.com

  1. 上記リンクから、「Visual Studio 2019 の Microsoft Visual C++ 再頒布可能パッケージ」(その他のツールとフレームワーク→Visual Studio 2019 の Microsoft Visual C++ 再頒布可能パッケージ)をダウンロードし、インストールする。
  2. (インストール済みの場合は)一度Xamppをアンインストール(削除)し、イチから設定し直す。

以上の対処を行うことで、十中八九正常に起動すると思われる。

なにかの参考にしてほしい。

街角日記:HUAWEI Band4を購入した🌵

最近すっかり太ってしまった。
なんと半年前と比べて+10kgも太ってしまった。
これは流石にやばいと思い、食事の節制、生活習慣の整序を行うことにした。
そこで思い立って、HUAWEI Band4を購入した。

HUAWEI Band4はいわゆる「スマートバンド」と称されるものだ。専用アプリを用いてスマホと連携し、腕時計のように身に着けていることで様々な情報を得ることができる。例えば、歩数、消費カロリー、睡眠リズム、心拍、血中酸素濃度など…。スマートバンドは「スマートウォッチ」よりは機能が制限されてる(例えば、AppleWatchと比べればできることはシンプルに抑えられている)のだけど、その分お値段がとっても安い。このHUAWEI Band4は、実売価格が4000円程度で、スマートウォッチと比べても気軽に手を出すことができる。

身につけるとこんな感じになる。
バンドの色は、僕はオレンジを選択した。
つけ心地は実に良くて、長時間つけていても全く疲労を感じない。

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(かわいい)
このHUAWEI Band4の白眉が、専用アプリ「HUAWEI Health」との連携による、強力なフィットネス・トラッキング機能だ。日々の運動や睡眠を、非常に高い精度で記録・統計化してくれる。

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ウォーキング中の各種データを記録してくれたり、

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装着したまま寝ると、こんな風に睡眠状態をトラッキングしてくれる。特にこの睡眠トラッキングの精度は高くて、実際の睡眠実感とデータがかなり一致する(夜の睡眠と短時間の昼寝も区別して記録してくれる)。
4000円の端末なのにめちゃ高機能ですごい。

とりあえず今は購入して大満足している。
純粋に時計としても可愛いデザインなので、当分は普段遣いして日々の運動状況は健康状況を可視化していきたい🌵がんばってやせます!


街角日記:オフィスチェアを購入した🌵

先日、オフィスチェアを購入した。

 これまでずっと学習机に付属している、青色のくるくる回る回転椅子(これでなんとなく伝わるだろうと思う)を利用していた。この椅子は、僕が小学校4年生になった際に購入していたものだから、もう10年は使用し続けていたことになる。けれども10年も利用していれば、クッションはへたるし、がたつきも現れる。なにより体格に合わない。
そのせいか、最近は腰が痛くなることが多かった。これは流石に限界だということで、山善のオフィスチェアコンパクトを購入したのだ。

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組み立てはすこぶる簡易だった。大人の男性であればものの5分で組み立てられると思う。
実際に使ってみると、座り心地はとてもよい。座面のクッションもしっかりしているし、変なガタツキやきぃきぃとした亀裂音もない。メッシュ地のハイバックはとても体の曲線に沿っていて、安心して背を預けられる。4000円でこれは相当お買い得なのではと感じた。
実際にちゃんとした椅子に買い替えてみてひしひしと感じたのは、これまでの椅子がいかに身体に合っていなかったか、ということだ。新しい椅子に買い替えてから、

  • 腰の痛みが数日で治った。
  • 机での作業が遥かに集中できるようになった。
  • 長時間の座っていても疲れなくなった。

といったメリットを得ることができて、すこぶる快適になった。
ほんと、もっと早く買い替えてたらよかった…。
椅子って大切ですね…。

街角日記:今日の日記

今日は朝からごろごろして2度寝3度寝と惰眠をむさぼっていた。
さいきんはアルバイトを始めているのだけど、アルバイトがない日は大体睡眠して過ごしている気がする。労働を始めてから睡眠時間が増えてしまっていて、他の事(勉強したりとか、趣味の本を読んだりすることとか、料理を作ったりすることとか…)に割く時間が減ってしまった。ろ、労働がにくい…。

今している労働はどちらかというと「時間をそのままお金に換える」の労働だ。なにか自分の能力を使って成果物を生み出して、それが評価されてお金になるわけではない。どちらかといえば、ひとつひとつは(誰にでもできる)単純作業で、それが複数組み合わさって業務が構成されている。僕はあまりこういう労働作業には向いてないなぁ…と働き始めてひしひしと感じている。とはいえ、お金を得るにはがんばらなくてはいけないのだけど…。

午後からは市役所にいって自立支援医療手帳の更新申請をしてきた。市役所はいつも込み合ってて大変だ。幸い事前に書類等を準備して万全の体勢で窓口に臨んだから、更新は5分足らずでおわった。これで今年も1割負担で通院ができるのでありがたい。

そして今はいつも通ってるバーでパソコンを開いてこの日記を書いている。マスターと時折雑談したりしつつ。のんびりした時間。
あとは公開するボタンを押せばすべて完了する。いつもブログは家で書いてるのだけど、たまにはお外で書くのもいいものだなぁっと思った。

偽装登校の淡い思い出

僕は小学生・中学生・高校生時代の大半を不登校生として過ごしてきた。

小学校高学年ぐらいから学校を休みがちになり、その頃には既に兆しが見えていたのだけれど、確か中学1年の後半から所謂不登校となったものと記憶している。学校に通えなくなったことにつき、何か特別な出来事がきっかけだったとか、別にそういうことはなかった。元々集団や規律といったものがとても苦手であったから、小学校と比べ格段に厳しい規範に縛られ、かつ、狭苦しいコミュニティで集団行動を求められる中学校は僕にとって苦痛でしかなくて、だから学校に通わないという選択は、当時の僕にとって合理的な選択肢足り得たのである。

とはいえ一般に中学校は義務教育段階なので、当然親や教師は登校を促し、また圧力をかけてきたりする。でも正直なところ、僕は一秒たりとも中学校という閉鎖的で得体の知れない共同体、具体的に言えば所属していたクラスに通いたくはなかった。そんな中、ある日ふと、登校する’ふり’をすれば良いのではないかと思い立った。

朝、制服を着用し、母親に声をかけた上、学校に向かうふりをして家を出る。しかし実際には学校とは正反対の方向に存在する野山まで赴き、およそ人の気配のない山奥の渓流沿いに腰を落ち着ける。そこであらかじめ用意した文庫本や携帯ゲーム機に耽り、あるいは何もせずぼおっとしながら下校時刻まで時間を潰し、その後何食わぬ顔で帰宅するのである。僕はこれを、偽装登校と呼んでいた。
偽装登校を始めた当時、僕は日常的な不登校児であると学校側に認識されていたから、僕の両親は一々欠席する旨を担任に伝えなかったし、また学校側も僕が欠席した旨を一々両親には連絡しなかった。結果として、偽装登校は、予想以上にうまくいった。この事実は、僕にある種の安堵をもたらした。嫌で嫌でしょうがないコミュニティや、そのコミュニティに属することを強制してくる存在から逃れられるという安堵である。この事実には、当時本当に救われた。

当時不登校だった僕は毎日が本当に苦痛で、「学校に毎日通う」という他人が当たり前のようにしていることすらできず、自分はだめな存在だという強烈な劣等感を抱えていたし、成人した今でもそれは拭いきれていない。だから、偽装登校の思い出は、本来であれば思い出したくもない苦いものとなると思う。
けれども不思議なもので、今の僕は、偽装登校の思い出を淡く、いじらしく、心地良く感じ、折に触れては懐かしむことが多い。平日の昼間に山奥の渓流沿いで小川のせせらぎに耳を傾け、深緑の木々を視界の端にしのばせながら文庫本のページを捲り物語に没入していたあの一瞬は、苦々しい経験を時の経過でもって咀嚼し昇華する人間の内面の働きによって、当時とは異なる性質の想い出となり、僕の精神を豊かにしてくれている。
不登校の頃の、淡く甘美な想い出のひとつとして。